将棋は日本人にとってなじみ深い遊戯です。
起源はインドといわれており、世界中によく似たボードゲームが存在しますが、敵の駒を取って自分の駒として使える『持ち駒』制度があるのは日本の将棋だけです。
実は、かつてこの将棋という文化が禁止されようとしていました。
その将棋を救ったのは、一人の破天荒な若き将棋指しと『持ち駒』でした。
目次
終戦とGHQの施策
第二次世界大戦後、GHQ(連合国軍総司令部)は日本が二度と国際社会に台頭しないよう、日本の国力を徹底的に弱めようとしていました。
その施策のなかには日本の伝統的な文化の禁止も含まれており、将棋もそのなかに含まれていました。
若き将棋指し・升田幸三
その将棋を守ったのが、若干二九歳(当時)の破天荒な将棋指し・升田幸三でした。
大酒飲みでビッグマウス、その一方で肝が据わり、頭がよく回ることでも知られていました。
1947年、彼はGHQに出頭を命じられました。将棋の禁止に向けた形ばかりの尋問を受けるためでした。
ですが、ここでひるむ升田ではありません。彼は居並ぶ戦勝国の将校たちを相手に全く臆することなく、持ち前の度胸とよく回る頭を武器に『対局』に挑みました。
升田の『対局』
両者が対峙すると、GHQ側はこじつけのような理論を振りかざして将棋の禁止の口実を作ろうとしました。
その時の升田の答弁はまさに当意即妙でした。
GHQ側が「将棋の持ち駒制度は捕虜虐待に通じる」と言えば、升田は「チェスでは相手のピース(駒)を投げ捨てる。これは敵兵を捕虜にするどころか殺してしまうのと同じだ」と応じたうえで「日本の将棋は相手の飛車(将校)をとっても飛車のまま待遇して戦力とする」と付け加えました。
また、当時将棋の名人として名高かった木村義雄が、戦時中、海軍大学で教鞭を執ったことを指摘されると「あの人が講義をしたから日本は負けた。
まぎれもなくあなたたちの恩人じゃないか」と切り返しました。この弁舌にGHQの将校たちは唖然とするばかりでした。
そうしてすっかり場の空気をリードした升田は、将棋に限らず、ありとあらゆるうんちくを数時間にわたって延々と垂れ、GHQの将校たちを聞き入らせることに成功し『対局』は升田の勝ちとなりました。
こうして、若き破天荒な将棋指しのおかげで、今日に至るまで将棋という文化が続いています。