1853年、ペリーが率いる蒸気船が、日本にやってきました。
学校の教科書に載っていた、大きな黒船の図を覚えている人も多いと思います。
ペリー来航のときにはまだ日本は鎖国していて、外国と交流するつもりはありませんでした。
ペリー来航の目的とは?またペリーが来航した場所とは?
わかりやすく説明してみたいと思います。
ペリー来航の場所とは?
ペリーは「浦賀」という地名の場所に来航しました。
浦賀とは神奈川県の横須賀市の地名です。
三浦半島を長ぐつの形にたとえると、地図右下のかかとのあたりに浦賀の港があります。
東京湾の入り口側にあたる場所ですね。
ペリー来航のときには日本はまだ鎖国していて、長崎の出島で外国船と貿易をしていました。
出島は鎖国中に貿易できるゆいいつの場所として設けられた場所です。
ところがペリーは長崎の出島でなく、神奈川の浦賀めがけてやってきました。
開港していない浦賀を選んで日本にやってきたペリーには、どんな目的があったのでしょうか?
ペリー来航の目的とは?
ペリーはアメリカの軍人で、アメリカ大統領からの手紙を預かってきました。
鎖国していた日本に、開国をしてほしいとせまる内容です。
アメリカは日本に立ち寄って、燃料、水、食料の補給をさせてほしかったようです。
このころ、アメリカは鯨を捕る「捕鯨」が盛んでした。
マッコウクジラを捕まえて鯨の油をとり、燃料、原料として使うのが捕鯨の目的です。
食用には適さなかったので、油を取ったら残りは捨てていました。
当時は貴重な油だったので、どうしてもアメリカの捕鯨に協力してほしかったようです。
ところでペリーは船で日本に来るのに半年もかかったそうです。
いったいどこを通って浦賀にやって来たのでしょうか?
ペリーはどこから浦賀に来たのか?
そのころ太平洋を渡るという航路はまだ使われてなく、ヨーロッパからはアフリカや南アメリカの外周の航路が使われていました。
大西洋、インド洋を通る航路です。
したがってペリーもアメリカ東海岸のヴァージニア州ノーフォーク港から大西洋へ出てアフリカの南端、インドをまわって半年がかりで日本にやってきました。
途中で立ち寄った国々で、日本の情報も集めて回ったそうです。
ペリーが日本に来る前、アメリカはメキシコと戦争して、メキシコのほかアメリカ西部にあるカリフォルニアを領土にしました。
アメリカによる西部の開拓が盛んに進められました。
ペリー来航の5年前となる1948年、アメリカのカリフォルニアで金が発見され、ゴールドラッシュに沸きました。
人々は金を求めて、西へ西へと向かいました。
西部劇でおなじみ、アメリカの西部開拓によって、西部の向こうにある太平洋やそのまた向こうにある日本、中国にまで興味を持ち始めたのでしょう。
大西洋や南アフリカを回ってまで、ペリーが日本にやってきた目的は、アメリカの開拓事情と深いつながりがあるのです。
ペリーが来て日本はどうなった?
ペリーの手紙を受け取ったあと、日本は「1年後にもう一度来てほしい」と返事しました。
このころ日本では、12代目の将軍、徳川家慶が病にふせっていました。
無視することも戦うこともできないまま、先延ばししたのは日本人の知恵といえるでしょう。
年明けの1月、ペリーたちは船を10隻に増やして、また日本にやってきました。
大砲、黒船のすごさに断ることもできず、日本は開国することになりました。
とりあえず下田と函館(はこだて)の2港を開港し、アメリカとは日米和親条約を結びました。
その4年後に軍人のペリーではなく総領事のハリスというアメリカ人がきて、日米修好通商条約を結ばされました。
先の2港に加え、横浜、神戸、新潟、函館、長崎でも貿易を行うというものです。
日本にはまだ国の力がなかったため、不平等で不利な条約となってしまいました。
領事裁判権(治外法権)といって、アメリカ人が日本で悪いことをしたときには、日本にいるアメリカ人が裁くという内容です。
関税自主権がないという内容では、輸入をする時に税金をかけさせてもらえないという内容です。
外国の安物が大量に日本に入ってしまうと、今まで日本でモノを作っていた人たちが打撃を受け、失業してしまいます。
また関税は国の税金収入のため、関税をかけられないと国の収入もなくなります。
アメリカとの付き合いは、日本にとっては経済的な負担がかかってしまいました。
日本の金が流出、物価は値上がり、庶民の暮らしは厳しくなりました。
生活に不満を持つ人が、一揆や打ちこわしを起こしました。
外国人を追い出そうという「攘夷」(じょうい)運動も、盛んに行われるようになりました。
ペリー来航の目的とは?場所は?のまとめ
ペリーは4隻のアメリカ軍艦(蒸気船2隻、帆船2隻)をひきいて、神奈川県の浦賀にやってきました。
アメリカで鯨の油を取りたくて、捕鯨のための補給所として日本に立ち寄らせてもらいたいという目的で来航しました。
当時の日本はアメリカとの技術の差が格段に違って、不平等な条約を結ばされることになりました。
日本は鎖国を続けたかったのに、ペリーの来航によって世界の大波に巻き込まれることになったのかもしれません。
ペリーの来航によって植民地化させられることなく日本はこの困難を乗り切りました。
日本人は鎖国を続けながらも文武に励み、独立国してやっていけるだけの力があったからです。
経済の混乱の中でも、開国以降は欧米との技術力の差を埋めようと、必死にがんばってきました。
その流れは徳川幕府による大政奉還、新政府による明治維新へと受け継がれていきます。
私たち日本人にとって、これからも外国との付き合いで困難がつきまといますが、ペリー来航で乗り切った知恵と粘り強さで、これからも乗り越えて行けるのではないでしょうか。