坂本龍馬は江戸時代の終わりごろ、幕末に活躍した土佐藩の人物です。
幕末にはペリー来航し、しぶしぶの開国。
坂本龍馬はこの不安定な時代を、過酷に華麗に生き抜きました。
歴史に名を残した坂本龍馬の名前は、竜馬と龍馬。
私たちは今日、2つの種類を目にすることができます。
竜馬と龍馬、この2つの漢字をどう使い分けていったらよいのか、龍馬の人物像とともにさぐっていきます。
坂本龍馬ってどんな人?
坂本龍馬は高知県の土佐藩、下級武士の家に生まれ育ちました。
子供の頃から世界地図、舶来の品々に興味を示し、広い世界への憧れを持っていました。
13歳の竜馬は江戸へ剣術を学びに行きました。
熱心に稽古を積んだ龍馬は、北辰一刀流免許皆伝を取得しました。
龍馬が江戸にいたとき、浦賀にペリーの軍艦4隻が来航しました。
立派な装備を持った巨大な軍艦に、龍馬は度肝を抜かれました。
龍馬は土佐へ戻ったあと、土佐の下級武士として収まる器ではなかったのか、土佐藩を脱藩してしまいました。
江戸へ戻った龍馬は、縁あって海軍の操練所で教鞭をとっていた勝海舟(かつかいしゅう)と出会いました。
海軍の操練所での資金集めに奔走した龍馬でしたが、ほんの1年足らずで海軍操練所は閉鎖されてしまうのでした。
坂本龍馬はどんな功績を残した人?
坂本龍馬は、薩摩藩と長州藩、2つの藩を薩長同盟で結びつけました。
当時の日本は、軍艦でやってきたペリーに開国をせまられ、国政が混乱していました。
当時はしぶしぶ開国することになりましたが、開国に断固反対する人たちも大勢いました。
天皇を敬い外国人を追い出そうという尊王攘夷派。
気弱な幕府に腹を立て武力で幕府を倒そうとする倒幕派。
この派閥の中でも様々な立場と考えの人、藩が入り乱れ、幕末は武士も民衆も不安定な生活を送っていました。
薩摩藩、長州藩、それまでのいきさつがあり、同じ倒幕派ながら険悪な仲でした。
藩に属する人たちが自分たちの藩を重んじる中、脱藩した龍馬は日本人として何をどうすべきか見えていたのでしょう。
薩摩と長州に対して、身内で争っている場合ではない、日本国をひとつにしようと呼びかけました。
こうして薩長同盟が結ばれ、日本が藩の寄り集まりから一つの国家に向けての第一歩を踏み出したのです。
坂本竜馬と龍馬、どっちが正しい?
高知県の坂本龍馬記念館の公式ホームページによりますと、龍馬自身が一度も「竜」の字を使ったことがないことから、当館では「龍」の表記で統一しているとありました。
グーグル検索で坂本龍馬、坂本竜馬、2種類検索をかけた場合も、「龍馬」の字が10倍多くヒットしました。
一般的に、「坂本龍馬」と表記すべきだと認識されているようです。
「坂本竜馬」はどこで使われたかというと、司馬遼太郎の長編小説「竜馬がゆく」で一躍有名になりました。
産経新聞で4年に渡って連載され、文春文庫では全8巻まで出版されています。
龍馬の「龍」の字は旧字体で、常用漢字である「竜」の字が小説で使われたのではないかと考えられています。
「坂本竜馬」と書くと親しみやすい字で誰にでも通じますが、正確に書きたい場合には「坂本龍馬」と表記している人が多いようです。
坂本竜馬と龍馬はどっちが正しい?のまとめ
坂本龍馬は31歳のとき、何者かによって暗殺されました。
幕末は大変混乱していた時代で、誰が誰に暗殺されても不思議ではないような状態でした。
開国により欧米との力の差を見せつけられ、誰がどう努力してもどうにもならなかった時代だったに違いありません。
龍馬が暗殺される1ヶ月前、大政奉還が実現しました。
翌年、明治天皇を中心とする新しい政府の政治が始まりました。
龍馬もこの新しい時代を自分の目で見て見たかったに違いありません。
竜馬と龍馬、2つの名前を使い分ける私たちは、龍馬の広く世界を見つめる心に強い憧れをもってこの名前を選び続けているのではないでしょうか。