佐渡金山の大立竪坑について解説します

1e1f408b0974e63f1fcb1df764f25902_m-min
トキやたらい舟など多くの観光スポットで知られる佐渡ですが、佐渡金山が世界遺産に名乗りを上げたことでも、注目を浴びています。

佐渡金山遺跡には江戸時代からの金銀採掘の史跡とそれを支えた人々の暮らしがあざやかに残され、今もその姿を見ることができます。

手掘りで掘られた「宗太夫坑」や、人々が金銀を求め鉱山を切り崩した結果山が真っ二つに割れた「道遊の割戸」など、多くの見所がある佐渡金山ですが、その中でも、佐渡金山の近代化の象徴でもある大立竪坑についてご説明します。

スポンサーリンク
info-collegeレクタングル大

佐渡金山の歴史

佐渡金山は、近世におけるわが国最大の金銀山で、慶長初期より幕府直営のもと開発され、江戸時代を通じて幕府の重要財源でした。

江戸時代には、鉱夫が身一つで鉱山を掘り進め、後ずさりで抜けた「狸堀」という名の横穴が示すように、手掘りでの採掘が中心でしたが、明治維新後、政府は洋式の技術を採用して近代化をはかり、模範高山として日本の鉱業界の発展に寄与しました。

しかし、鉱石の枯渇により採掘量は減少し、平成元年3月、約400年にわたる佐渡金山の採掘の歴史は幕を閉じました。

大立竪坑の役割

明治維新後、政府は近代化を図るため、洋式の技術を採用しましたが、そのシンボルとも言えるのが大立竪坑です。

長い歴史を歩んだ佐渡金山の終末期に採掘の中心になったのが大立竪坑でした。

竪坑とは、鉱山などで,鉱物および人員の運搬,または通気の目的で地表から坑内へ垂直に設けた坑道のことで、大立竪坑は日本最古の西洋式竪坑になります。

大立竪坑は1875年、ドイツ人技師らの手によりに開削が始まり、1877年に完成しました。

地下エレベーターによる垂直の運搬坑道の断面は約5.7m×3.3mの矩形で、最終深度は352mにも及んでいます。

大立竪坑の鉄骨造の櫓は竪坑内にケージを昇降させるための施設で、佐渡金山坑道見学入口から少し上った道路沿いに今も見ることができます。

佐渡金山遺跡を見れば、日本の鉱山技術がわかる

佐渡金山は、鉱石の採掘だけでなく、金銀の製錬や貨幣の鋳造などの一連の技術工程がひとつの鉱山で完結していたことが大きな特徴です。

大楯竪坑だけでなく、砂金採掘のために切り崩された山、鉱石の露頭堀り・坑道堀りの跡など、日本の鉱山技術のすべてを見ることができ、そのほとんどが国の重要文化財、史跡、近代化産業遺産に指定されています。

佐渡に来たらならばぜひ「佐渡金山遺跡」を訪れて、ご自分の目で日本を代表する金銀山を確かめてみてください。

スポンサーリンク
info-collegeレクタングル大
info-collegeレクタングル大

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする